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偽島はなぜ偽物にすぎなかったのか。

本物と偽物を区別するのは、命だと思う。

かつての竜宮島は、偽りの楽園であった。本当は東京なんてとっくに滅んでいて、芸能人なんていなくて、島の外では人類が存亡をかけた戦いに身を投じていた。しかし、島民たちはあの平和がニセモノだったとは言わない。なぜ偽りの楽園が価値のある楽園たりえたか、それは島民に平和を”作り出す”意思があったからだと思う。

ただ過去の遺産をトレースするだけ、ぬるま湯のような穏やかな日々に身を漂わせるだけなら、それはただの偽物だ。死んでいるのと同じだ。起きたら醒めてしまう夢と変わりない。そこには誰もいない。

平和を作り出そうという意思があったから、楽園は生きていた。血の通うあたたかさがあった。文化は作り出して受け継ぐことで初めて生きたものになる。アーカイブのデータを流すだけ・コピーするだけではなく、番組を作ったり漫画を描いたりして積み重ねていくからこそ、島の文化は生きていた。過去と全く同じイベントをやるのではなく、そこにこめられた想いはそのままに、少しずつ変化させていくから生きたお祭りになっていた。

 

本物と偽物を区別するものは何か……それは命だと思う。

「命になるってことだろ」

代謝すること、生まれ変わること。新たなものを取り入れて自分のものとすること。

偽物であっても、そこに思いをこめて形を変えながら受け継いでいくことで、その偽物は生きた意味を持つ。命となる。確かにここにあると宣言できるものになる。進化すること、代謝することは命になること。

あの偽島には文化がない。ただの模倣、再現でしかない。そこに意味はあっただろうか。一緒にごはんを食べるという行為を、仕事をするという行為を、灯籠を流すという行為を、真似ているだけではないのか。彼らがその意味を学ぶにはまだ時間が足りなかったようにも思う。

 

模倣といえば、名前もそうだ。皆城乙姫という名前が持つ意味を、何ひとつ再現してはいない。咲いては散る花ではない。フロロ(エスペラント(語)で花の意)はただ咲くだけ、散ることを知らない。永遠の存在というものはありえない。命には必ず終わりがあるのだ────あの皆城乙姫が伝えたように。

 

ポラリスの破壊の後、一部のフェストゥムは生まれることを学んだ。来主操の属するボレアリオスミールが生まれ変わったように。

あの偽島は、フェストゥムが学んだ「生まれること」の一つの形だ。ただし、彼らは生まれることしか知らなかった。存在する上で避けられない「痛み」を全て他者に押し付けた(大切なものを奪って作ったと一騎が言っていた)。生まれることしか知らなかった彼らに「死」という終わりと「存在の痛み」を教えにきたのが真壁一騎という存在。

 

生きることは、変わることであり、痛みを伴うこと。”悲しいからって諦めずに、そこにいることを選び続ける”者だけが、本当の意味で新たな命を授かることができる。

 

フロロ、あなたはそこにいますか?

【追記】円盤発売後、改めて一騎のセリフを聞いて「偽物だから否定されたわけではない」と考えを改めたのでこちらもぜひどうぞ。

​>>偽島が否定された理由

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