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対立とは、「いい人」とは。

 

普段蒼穹のファフナーについて書いているが、今回は他作品(主に鉄血)も交えて話をしようと思う。もちろんファフナーにも触れる。

鉄血のオルフェンズ最新話(41話)及び進撃の巨人(アニメ第1期)、アルドノア・ゼロ、Fate/Zeroのネタバレを含むことにご留意いただきたい。

 

私がこの文章を書こうと思ったきっかけは、機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズに登場するイオク・クジャンの存在だ。

彼は第2シーズンより登場し、味方に「下がっていてください」「邪魔です」と疎まれるに飽き足らず、邪推をもとに行動してモビルアーマーを起動させたり、攻撃で進路を変えて鉄華団らの作戦を邪魔したり(その過程で多大な犠牲が出ている)、ついに第40話「燃ゆる太陽に照らされて」では今まで鉄華団を後ろ盾してくれていたタービンズを壊滅させた。停戦信号を示した名瀬・アミダを殺害、脱出艇さえも(違法武装を使用して)攻撃した。第40話放送後、SNS上で彼への不満が噴出したのは言うまでもない。

続く41話では裏で手を引いていたジャスレイの態度とやり口に、一気にそのヘイトはジャスレイへと移った。私含め全視聴者が手のひらの上で踊らされているようで、見ていて清々しいほどだった。(しかもイオクへのヘイトがそのまま移ったので、イオクがそれまでにしでかしたモビルアーマーの一件等も重なってものすごい憎まれようである)

 

最初に断っておくが、どこの誰がどのキャラクターを嫌いになろうと、死ねと言おうと、むごい死に方をしろと言おうと、私は個人の自由だと思う。主人公がんばれ! 敵は死ね! というスタイルも視聴者の一つのあり方だ。本気でそう言うも、ネタでそう言うのも、だ。

 

ただ、私は違う見方もある、という話をしたい。

 

アニメなどの作品は、基本的に主人公が存在する。主人公がいて、多かれ少なかれその主人公の視点で物語は進む。とくにわかりやすいのは物語シリーズで、こちらは基本的に阿良々木暦のモノローグで進行する。例外については後述する。

多くの視聴者は当然、この主人公たちの視点に立って物語を追いかける。

 

ここで考えたいのは、対立とは何か、いい人とは何か、ということだ。

 

進撃の巨人における、アルミン・アルレルトの発言で次のようなものがある。

 

「いい人か…それは、その言い方は、あまり好きじゃないんだ。だってそれって、自分にとって都合のいい人のことをそう呼んでいるだけのような気がするから。全ての人にとって都合のいい人なんていないと思う…だから、アニがこの話に乗ってくれなかったら、アニは僕にとって、悪い人になるね」 (アニメ23話より)

 

いい人とは、都合のいい人の事だ。

悪い人とは、都合の悪い人の事だ。

 

主人公の味方ならいい人だし、主人公の敵なら悪い人。敵でものちに味方になってくれるなら「実はいい奴」となる。もちろん断言するわけでなく、そう感じやすいという話だ。

 

物語は主人公の視点で進む。それゆえ、主人公と対立する人は悪い人に見えやすい。

主人公が「こいつは死んでいい奴だから」と言えばそいつの評価はそうなるだろうし、「罪多き子供」と敵が言ってもそれは聞き流される。主人公の言うことには賛同するし、敵の言うことは認めない。実際そうかは別として、「無条件にそうなんだと思う」「そう感じる」という点に論点を置く。

それに伴う描き方によっても印象は変わる。

例えば重要人物を暗殺するにしたって、主人公側がやれば「よくやった!」「かっこいい!」だけど、敵がやれば「暗殺とは卑怯な!」となるわけだ。事実が同じでも、描き方が違えば評価は変わるのだ。

 

この手の印象の違いのうち、例外として挙げられるのは、ダブル主人公をとる形式の物語だ。例えばアルドノア・ゼロ。地球側と火星側、それぞれ全く違う環境で育ち生きる二人の少年をフォーカスしている。視聴者は地球と火星/伊奈帆とスレインの両方を中立的に見守るもよし、片方の肩を持つのもよし、またはアセイラムの視点に沿うもよし。

 

 

ここで一つ、「正しい方がいい人ではないのか」という命題に関して、「客観的な正しさ」ということについても述べておく。

 

正しさとは何か。

 

「人間として正しい方が正しい」とするなら、その正しさとはなんだ? という話になる。

人としての正しさを問いかける作品はいくらでもあるし、どちらが正しいのか、というのは対立をえがく作品ほぼ全てにおいて通用する命題ではないだろうか。

例えば先ほど取り上げたアルドノア・ゼロは、立場の違う者たちをそれぞれメインに取り上げることで、誰が正しい、とは単純に言えない物語構造をしている。最終的にスレインは囚われの身となるが、だからといって彼が間違っていたかといえばそうではないだろう。

Fate/Zeroで正義の味方になりたかった衛宮切嗣は、大多数を救うためならたとえ親しい人であっても犠牲にするという在り方を選んだ。果たしてそれが正しかったのかどうかは、結論を出せないであろう。

似たような話なら、トロッコ問題がある。5人が作業をしている線路に向かって暴走するトロッコがあり、今あなたの目の前にはトロッコの進路を変える分岐器がある。その分岐器を操作すればその5人は助かるが、代わりのその先にいる1人は犠牲になるだろう。あなたはトロッコの進路を変えますか、変えませんか? という問題だ。この問題には明確な答えが存在せず、答えは人それぞれである。正しさに絶対などないのだ。

 

明文化された定義として、「法律を守っている方が正しい」とするなら、犯罪者をかっこよくえがいた作品はダメなのか? ということになる。天才ハッカーだとか、殺人鬼だとか、犯罪者を主人公に据えた作品は多くある。有名なものではルパン三世とか。犯罪者だからといって彼らが悪者であるという人はあまりいないだろう。実は良い人だとか、やってることは悪いことだけど仕方ないのだとか、彼の信念には賛成できるとか、かっこいいから許されるのだとか、視聴者は何かしら理由をつけて肯定することが多い。

また、法律というのは曖昧なところはあるし、そもそも国や時代によって法律は違う。それに、戦争は法律を度外視した争いである。勝った方が、強い方が、正しい。

 

「宗教的に正しい」という話は、この世に宗教が無数にある以上定義として意味をなさない。もちろん個人の思想は自由だから、そう考える人がいてもいいのではあるが、普遍的なものにはなりえない。

 

つまり、こうした何が正しいかという判断は、結局個人の価値観に委ねられる他ない。

 

 

さて。

このように、正しさは客観的に定義できず、「いい」と「悪い」は、いくらでも言いようがあるものなのだ。

 

よく言われるいい・悪いはえてして相対的・流動的・主観的なもので、絶対的なものではない。

主人公が絶対に正しいということはないし、敵が絶対に間違っているということもまたない。

当たり前のことであるが、忘れそうになることである。

 

 

人と人とが争うのは、その両者の間に違いがあるからだ。差があるからだ。それは生まれもった体の性質や血筋かもしれないし、社会的に与えられたものかもしれないし、考えていることや持っている感情かもしれない。

身体、社会、精神……なんにせよ、何かが違うだけである。どちらが間違っていてどちらが正しい、という関係は存在しないのではないだろうか。相手が異星人や異世界からの来訪者であってもだ。ウルガルとかフェストゥムとかインキュベーターとか。

 

 

蒼穹のファフナーEXODUS第3話にて、こんな会話がある。

主人公がかつて人類軍に捕らわれた際に採取された因子によって、遺伝子を操作された人類軍のパイロットたち。彼らが主人公・一騎に感謝した、というシーンの続きである。

 

「彼らの年齢で、染色体変化と同化現象を受けたなら、20代の終わりまで命がもたない。それが彼らの生存限界だ」

「なのに俺は、感謝されたのか」

「お前の責任じゃない。立場が違えば、僕らが誰かの因子を使って戦っていた」

「そうだな」

 

立場が違えば、僕らが誰かの因子を使って戦っていた。

 

どんな争いも、結局は立場の違いでしかない。どちらが正しいということも、どちらが間違っているということもない。

視聴者という立場は、そういう立場を超越した第三者の視点を得られる場所でもある。

 

物語を読み解くとき、視聴者はこういう視点を持つこともできるのだ。

時には主人公たち以外の視点に立って考えてみるのもいいのではないか、と述べて筆を置くこととする。

 

最後に。蒼穹のファフナーは、いいぞ。

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